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2013/1/7
年賀状の歴史
年賀郵便の減少が聞かれる昨今、新年の挨拶に届く年賀状は嬉しいものです。 日本で、新年に挨拶を交わす風習がいつ姶まったかは分かりませんが、飛鳥時代には、天皇が元旦を迎えた喜びの祝いを家来から受ける儀式「朝賀(ちょうが)の儀」が行われていたことが記録されています。 奈良時代に作られた日本最古の歌集「万葉集」には、正月を祝う歌を贈る風習があったことを示す和歌があります。 その後平安時代に入ると貴族や公家にもその風習が広まり、遠方でなかなか挨拶をする事ができない人たちへ年始の挨拶回りにかわるものとして書状が交わされるようになりました。 この風習が江戸時代には一般的に見られるようになったものの、その数自体は多くありませんでした。 それまでの書状とは異なり年賀ハガキが登場したのは、明治時代です。 明治維新後に郵便制度が確立し、1873年に官製ハガキが誕生しました。 最初はに元旦を迎えてから書初めのようにしたためるものだったようで、内容は「謹賀新年」などのシンプルな祝いの言葉だけというものが多かったようですが、年始の挨拶を簡潔に安価で送れるということでこの頃から年賀ハガキを贈る風習は広まっていきました。 そして1905年以降に起きた絵ハガキブームにより、現在のようにデザインも豊になっていきました。 現在の「お年玉付き年賀ハガキ」は、1919年に初めて登場しました。 また、くじや寄付金を加えることで夢を与え、社会貢献にもなる」という民間の意見からです。 当時の販売価格は2円、寄付金つきが3円で、第一回の賞品は特賞が高級ミシン、一等が純毛洋服生地、二等が学童用グローブ、三等が学童用こうもり傘でした。 昭和30年代に入ると、特賞が電気洗濯機、タンス、8mmカメラ…と変わってゆき、賞品は当時の世相を反映していました。 ちなみに今年の賞品は、選べる国内・海外旅行、ノートパソコン、40型液晶テレビなどです。 平成に入ってからも増加を続けていた年賀郵便は1997年の約37億通をピークに微減傾向が続いています。 景気の長期低迷が続いたことやインターネットの普及で電子メールがさかんになった事など理由は様々ですが、現在でも国民一人あたり約35通の年賀状を出していることになります。 年賀状は、長い日本の伝統を背景に、日本の民衆自身が育てできた文化です。 互いに元気でいることを感謝しながら一年の健康と幸せを願う年賀状はやはり受け取るとあたたかい気持ちになるものです。 皆様は、今年はどのような年賀状をもらいましたでしょうか。 出典:Lohas通信 vol.26 2012/12/18
『福袋今昔』
今年も暮れが押し迫ってきました。 さて、正月といえば、ここ数年盛り上がっているのが「福袋」です。 今年初めのニュースを見てみると「大手百貨店などの正月三が日の「初売り」状況は、高額の福袋が人気を集め、過去最高の売上を記録する店も出るなど多くの店で前年実績を上回った。 とのこと、その中身も「大型液晶テレビやペルシャじゅうたん入りの100万円の福袋(2組限定)が完売、三越日本橋本店でも、300万円の宝石セットや2000円の絵画が初日から売れた。」とか,なかなか景気がよさそうな言葉が並んでいます。 では今年は…?というと、自分で好きな商品を選んで詰めることができる。 新年を待たず年内に受け取れる一福袋の世界が大変なことになっでいるようです。 この数年、福袋はあらかじめ中身をオープンにするのが当たり前になりつつありますが、さらに”進化”して中身そのものを客自身が選べるものが現われたのです。 一方、年内に届くのは、事前に受付をして12月27日から30日の問に自宅に届けられるというもの。 もっとも、ネット通販なら年末といわず一年中福袋が買えるようになっていま。 店舗に置いていない独自商品という希少性が評判を呼び、用意する1000セット〜2000セットは発売から数時間で完売するという人気店もあります。 商品を自分で選べる福袋にしでも、年内に受取れる福袋にしても、消費者ニーズに合致していることは間違いありません。 自分で選んで詰め合わせれば、要らないものが入って舌打ちすることもないし、年内に受け取れれば、混雑する初売りにわざわざ出かける必要もなく、正月準備に役立てることもできます。 ただし、それを[福袋]と呼んでいいかどうかはわかりませんね。 福袋の起源は定かではありませんが、明治時代にはすでに存在していたそうです。 広辞苑によれば「余興や、商店などの初売りで、いろいろな物を入れて封をし、各人に選び取らせる袋」。 開けてみてのお楽しみという、ちょっとドキドキ感が人気を呼んで広まったのでしょう。 年の初めにあたって、一年の運勢を占う意味もあったはずです。 店の側もそれを分かっているから「外れ」はつくらない。 買った方はその気持ちを受け止めて、不要なものが入っていても笑りで済ます。 正月の縁起物に商売や損得を持ち込まないというのが双方の暗黙の了解事項だったのではないでしょうか。 しかしそんなのんびした時代ではなくなりました、背景にあるのは言わずと知れた消費者ニーズ。 際限なく要求をエスカレートさせる王様=消費者と、 売上を伸ばしたい一心でそれに応えることしか頭に浮かばない従順な臣人=小売店。 消費者は少しでも得をしたい、少しでも楽をしたいと要求を次々にエスカレート。福袋にも、遊びや楽しみではなく、利益や便益を求めだしました。 生殺与奪の権を握る王様がそう言うなら、臣下としてはたとえ邪道だろうと福袋の中身を見せるし、選ばせもする。 年内にほしいと言われれば届もする。 今の「福袋」はかっての日本の風物詩とは似で非なるものなのでしょう。 これを、さみしいと感じ取るか、時代しだからしょうがないと考えるのか、ご判断は皆様にお任せいたします。 出典 Lohas通信 Vol.12 2012/11/26
『だるまの目入れ』
いよいよ衆議院選挙が始まります。 選挙のクライマックスといえば、やはり当選が決まった時の”だるまの目入れ”です。 ご存じのように願い事を祈って片目を入れ、大願成就でもう片方を入れるというだるまの目入れですが、 もともとは約200年前に偶然に始まった風習らしく、左右の目どちらが先でどちらが後かなど、 特に明文化された正しい作法はないそうです。 達磨(だるま)大師を本尊とする群馬県高崎市の少林山達磨寺によると、江戸時代に水ぼうそうの魔よけとして、 だるまの人形を贈ることが江戸庶民の間で流行りました。 養蚕業の盛んな群馬にこの習慣が伝わると、カイコの脱皮を「起きる」と言ったことから「七転び八起き」のだるまが縁起物として好まれ、 片目だけ描いて願を懸け、良い繭が採れるともう一方の目に墨を入れて祝う習慣が養蚕農家の間で始まり、 やがて「願懸け」の風習として全国に広まりました。 少林山達磨寺では左側の目を先に入れるので、今では、大半がそれに倣った作法になっています。 選挙でだるまが定番になったのは、この高崎だるまがきっかけで、1928年に初の普通選挙として実施された衆議院議員選挙で、 高崎のだるま業者が「普通の神様」と名付けて販売したところ、選挙関係者に飛ぶように売れました。 その2年後の1930年の衆院選で長野市の候補が、選挙事務所に片目だけの大だるまを飾り、「当選したら残りの目を入れる」と宣言して選挙を戦い、見事に当選したために、それが全国に報じられて今のスタイルヘと発展したようです。 現在、選挙で主に使われているのは、やはり高崎製の「二重丸」という10,000円程度の大型のだるまです。 だるまは縁起ものなので、選挙に落選してしまった片目だけのだるまも、当選して開眼しただるまも、次の年お寺に納め、 供養してもらっているようです。 ちなみに日本一のだるまの産地といわれる高崎市は、 福田赳夫・康夫親子、中曽根康弘、隣の選挙区の小渕恵三まで入れると、 なんと4人の総理大臣を輩出した「総理の産地」です。 そう考えると、だるまは本当にご利益があるのかもしれません。 出典 Lohas通信 Vol.23 2012/10/20
『果物の脇役「柿」の秘めたパワー』
秋といえば読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋、芸術の秋など様々ありますが、 実りの秋ということでとりわけフルーツが美味しい季節です。 店頭には梨やブドウ、欧米のフルーツも多く出回っていますが、昔から日本人に食べられてきたのが「柿」です。 柿は南国のフルーツのような派手さはありませんが、実は素晴らしい健康パワーを秘めているのです。 柿は日本が世界に誇る果物の一つで、奈良時代にはすでに食べられていたようです。 16世紀にポルトガルをはじめ、日本に訪れた外国人はそこで初めて柿を知り、そこから世界中に広まったと言われています。 現在日本には約1000種類以上の柿がありますが、そのうち700種類あまりが「渋柿」です。 ご存じの通り、渋柿は「干す」ことによって渋味が抜けます。 渋味の成分であるタンニンが干すことによって姿を変え、渋味を感じなくなるのです。 「甘柿」も最初は渋味がありますが、熟す過程で自然とタンニンが変化するので干さなくても美味しく食べられるのです。 干す以外にもお湯の中に一日ほど漬け込んだり、アルコールをヘタのところに染み込ませたり、 ドライアイスとともに密封しても渋味は抜けます。 また、熟してない柿を絞って抽出した「柿渋」は、防水や防腐、補強作用があり、古来から漁師が網に塗ったり和紙に塗って強くしたり、傘に塗って雨を弾いたりすることに利用されており、食用以外の用途にも使われていました。 昔から「柿が赤くなれば医者は青くなる」 と言われるほど、柿のパワーは折り紙つきです。 なんといってもビタミンCとビタミンAが多く含まれ、風邪予防や疲労回復、老化予防や美容効果もあり、 その他にも血圧を下げたり、腸の働きを整える働きもあります。 また、「二日酔い」にも効果的でアルコール分解や二日酔い時の低血糖状態を補う果糖も柿には多く含まれています。 柿は本当に多くの健康に良い栄養を持っており、私たちの身体のバランスを整えてくれる頼もしい果物です。 健康に良い柿を食べて、清々しい秋を過ごされてはいかがでしょうか。 出典 Lohas通信 vol.28 2012/7/9
朝ごはんの大切さ
毎日に健康管理に大きく影響する食生活。1日の食事の中で生活習慣予防や、学力アップなどに朝ごはんが有効だと言われています。朝ごはんの3つの効果について紹介したいと思います。 1つ目は体を温めるということです。食事をすると体が温まるのは食べ物を消化・吸収する時に体がエネルギーを発散するからでこの熱は朝、最も多く、夜になるにつれてだんだん食くなくなります。人の体温は一日中に中で変動を繰り返し、夜9時を過ぎた頃から低下し、脳や体の休息に入ります。ですから、寝起きは体温が下がったまま、1日で最も体温が低い時間帯なのです。睡眠中に低下した体温を上げるためには朝ごはん、特に温かいご飯を食べると効果的です。体を温めるという意味では、たんぱく質がおススメです。食べたものをどれくらい熱に変える事が出来るかを比較すると、たんぱく質は30%、炭水化物10%、脂肪で3〜4%位と言われています。たんぱく質を摂って体を温めましょう。 2つ目は血糖値をあげて集中力をアップされます。脳はブドウ糖しかエネルギー源にできない上に、脳の中にエネルギー源を蓄えておくことができません。なので、寝起きは低血糖で頭が冴えない状態のままなのです。朝ごはんを食べて炭水化物で糖質を摂ることによって、しっかり脳を働かせることができるのです。 3つ目は便秘に効果的ということです。朝胃が空っぽの状態の時に胃が膨らむと自動的に大腸が運動し始めます。この現象を胃・結腸反射といい、腸を刺激してお通じを良くする効果をもたらします。夏バテの真っ最中、食欲が無い時は、とくに「量より質」を心がけましょう。そのためには良質のたんぱく質とビタミン、峰ラスをしっかり摂ること。冷奴や納豆などの大豆製品や牛乳、乳製品などのタンパク質を摂ることをおすすめします。 ビールや清涼飲料水の飲み過ぎには、胃の中の消化酵素を薄めて消化。吸収昨日を弱めますから控えてください。香辛料酸味などで食欲を出すための工夫をしたり、市販の胃腸薬を上手に使うのもいいでしょう。朝ごはんには様々なよい効果がありますので、しっかり摂って健康管理を見直してはいかがでしょうか? 出典 Lohas通信Vol.24。 2012/3/15
「 さ く ら 」
桜は春を象徴する花として昔から親しまれてきました。 平安時代以前は「花」と言えばく梅を指すことのほう加多かったようですが、平安時代以降古典で「花」と言えば桜を指すほどです。 しかし、「昔の人が言う桜と、私たちが思い浮かべる桜は別物」だと言われています。私たちが今、目にして慣れ親しんでいる桜はソメイヨシノです。 ソメイヨシノは江戸時代末期に江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)で作られた比較的新しい歴史の浅い品種です。名称は、桜の名所として古来名高く西行法師の和歌にも度々詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」とされましたが、「吉野(桜)」の名称では吉野山に多いヤマザクラと混合される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名されたそうです。 それ以前はヤマザクラや八重桜が主流で、昔から歌に詠まれてきたのは、ヤマザクラや八重桜でした。 どうしてやそれがソメイョシノに取って替わったのでしょうか。 その理由はソメイヨシノの長所にあります。ソメイヨシノは先に花が咲き、後から葉が咲きます。サクラの種類によっては花と葉がほぼ同時に開くものもありますが、ソメイヨシノのように花は先の方が見栄えが良いため、好まれるそうです。また、花が大きいため開花も華やかで、大気汚染や病害にも強い、観賞用に優れた品種として全国に普及していきます。ソメイヨシノはこのような長所を持っていたため、昔ながらのヤマザクラや八重桜は少しずつ数を減らしていったそうです。東京の開花基準は、いわゆる標本木も靖国神社にあるソメイヨシノです。 現在、「お花見のシーズン」は一週間ほどです、それはソメイヨシノが満開になってからすぐに散ってしまう、開花時期の短い桜だからです。それに対してヤマザクラやハ重桜は開花期間の長い桜です。 開花期間が長く、花をつける時期が少しずつ違う桜を隣りあわに植えることで、昔の人は1ケ月ほどお花見を楽しんでいたと言われています。一斉に花をつけてぱっと散っていくのも桜らしいですが、ゆっくりと桜を眺めて生活するのもいいかもしれませんね。昔のようにいろんな桜を観るなら大阪造幣局の「桜の通り抜け]が124種類340本以上の桜が観ることができ、オススメだそうです。 出典:Lohas通信 vol.27 2012/2/4
通貨の歴史
「お金は賑やかなところに集まる」ということわざがあります。一説には、元々の通貨は祭事など宗教的な意味合いを持っていたために、賑やかな所に集まると言われているそうです。では、日本の通貨はどのように発展していったのてしょうか。 ご存しの通り、古代は物々交換で取引か行われていました。しかし、大量に取り扱う際に不便なため、交換の媒介として通貨が生まれました。最初は穀物や布がその役目を担っていたので、日本初の通貨は穀物と言えるかもしれません。その後、唐の時代に「和同開珎」と呼ばれる鋳造貨幣が登場しました。これが日本初の官銭と言われています。これは平安時代中期までに改良を重ねながら発行されましたが、銅不足や改鋳益を得るために質の低下が目立つようになり、民衆の信頼を失い、銭離れが起きました。 その後、戦国時代まで共通の通貨は発行されなくなり、以前に出回った通貨と絹が代用通貨として使われる時期が長く続きました。この時代は、海外の通貨や豪族などが独自に作った「鐚銭(びたせん」と呼ばれるものも流通してはいましたが、なにぶん粗悪なため信頼度が低く、「ビタ一文受け取らない」ということわざが生まれました。 その後、江戸時代になりようやく通貨が統一されました。しかし、しばらくは江戸では金貨、大阪では銀貨が主流で公定相場があったにも関わらず、実際は高度な変動相場だったよです。後に、田沼意次によって完全な統一を目指しました。 明治に入り「円」が誕生し、初めての日本銀行券が発行されました。 1931年まで一時離脱はあったものの、金本位制が実施されていました。 1942年に管理通貨制度が採用され、現在の円相場となりりました。戦後、円の価値は固定相場制から変動相場制となり大きく変わったのはご存じの通りです。 通貨は、国の信頼によって価値が変わります。現在、世界の通貨は互いに複雑に絡み合ってお互いの価値を決めています。 通貨を見ればその国の価値が見えるとも言えます。米ドル下落は何を暗示しているのてしょうか? 出典 Lohas通信 Vol.13 |